ゴッホ自画像

フィンセント・ファン・ゴッホ

生誕 1853年3月30日
オランダ 北ブラバント州フロート・ズンデルト
死没 1890年7月29日(37歳没)
フランス共和国 ヴァル=ドワーズ県オーヴェル=シュル=オワーズ
墓地 フランス ヴァル=ドワーズ県オーヴェル=シュル=オワーズ共同墓地
北緯49度4分30.8秒 東経2度10分43.8秒 国籍 オランダ
教育 ブリュッセル王立美術アカデミー(1880年末一時在籍)
アントウェルペン王立芸術学院(1886年初頭一時在籍)
フェルナン・コルモン画塾(1886年)
著名な実績 絵画
代表作 『ジャガイモを食べる人々』、『ひまわり』、『糸杉と星の見える道』、『星月夜』、『カラスのいる麦畑』など
運動・動向 ポスト印象派(後期印象派)
後援者 テオドルス(弟)
影響を受けた芸術家 アントン・モーヴ、ドラクロワ、モンティセリ、ミレー、印象派、ジャポネズリー(浮世絵)
影響を与えた芸術家 ポスト印象派、世紀末芸術、フォーヴィスム、ドイツ表現主義

ファン・ゴッホは、1853年、オランダ南部のズンデルトで牧師の家に生まれた(出生、少年時代)。
1869年、画商グーピル商会に勤め始め、ハーグ、ロンドン、パリで働くが、1876年、商会を解雇された(グーピル商会)。
その後イギリスで教師として働いたりオランダのドルトレヒトの書店で働いたりするうちに聖職者を志すようになり、1877年、アムステルダムで神学部の受験勉強を始めるが挫折した。
1878年末以降、ベルギーの炭坑地帯ボリナージュ地方で伝道活動を行ううち、画家を目指すことを決意した(聖職者への志望)。
以降、オランダのエッテン(1881年4月-12月)、ハーグ(1882年1月-1883年9月)、ニューネン(1883年12月-1885年11月)、ベルギーのアントウェルペン(1885年11月-1886年2月)と移り、弟テオドルス(通称テオ)の援助を受けながら画作を続けた。
オランダ時代には、貧しい農民の生活を描いた暗い色調の絵が多く、ニューネンで制作した『ジャガイモを食べる人々』はこの時代の主要作品である。
1886年2月、テオを頼ってパリに移り、印象派や新印象派の影響を受けた明るい色調の絵を描くようになった。
この時期の作品としては『タンギー爺さん』などが知られる。日本の浮世絵にも関心を持ち、収集や模写を行っている(パリ時代)。
1888年2月、南フランスのアルルに移り、『ひまわり』や『夜のカフェテラス』などの名作を次々に生み出した。
南フランスに画家の協同組合を築くことを夢見て、同年10月末からポール・ゴーギャンを迎えての共同生活が始まったが、次第に2人の関係は行き詰まり、12月末のファン・ゴッホの「耳切り事件」で共同生活は破綻した。
以後、発作に苦しみながらアルルの病院への入退院を繰り返した(アルル時代)。
1889年5月からはアルル近郊のサン=レミにある療養所に入所した。発作の合間にも『星月夜』など多くの風景画、人物画を描き続けた(サン=レミ時代)。
1890年5月、療養所を退所してパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り、画作を続けたが(オーヴェル時代)、7月27日に銃で自らを撃ち、2日後の29日に死亡した(死)。
発作等の原因については、てんかん、統合失調症など様々な仮説が研究者によって発表されている(病因)。
生前に売れた絵は『赤い葡萄畑』の1枚のみだったと言われているが(他に売れた作品があるとする説もある)、晩年には彼を高く評価する評論が現れていた。
彼の死後、回顧展の開催、書簡集や伝記の出版などを通じて急速に知名度が上がるにつれ、市場での作品の評価も急騰した。彼の生涯は多くの伝記や、映画『炎の人ゴッホ』に代表される映像作品で描かれ、「情熱的な画家」、「狂気の天才」といったイメージをもって語られるようになった(後世)。
弟テオや友人らと交わした多くの手紙が残され、書簡集として出版されており、彼の生活や考え方を知ることができる。
約10年の活動期間の間に、油絵約860点、水彩画約150点、素描約1030点、版画約10点を残し、手紙に描き込んだスケッチ約130点も合わせると、2,100枚以上の作品を残した。
有名な作品の多くは最後の2年間(アルル時代以降)に制作された油絵である。
一連の「自画像」のほか身近な人々の肖像画、花の静物画、風景画などが多く、特に『ひまわり』や小麦畑、糸杉などをモチーフとしたものがよく知られている。印象派の美学の影響を受けながらも、大胆な色彩やタッチによって自己の内面や情念を表現した彼の作品は、外界の光の効果を画面上に捉えることを追求した印象派とは一線を画するものであり、ゴーギャンやセザンヌと並んでポスト印象派を代表する画家である。
またその芸術は表現主義の先駆けでもあった。


参考
Wikipedia
フィンセント・ファン・ゴッホ